ピアノを弾くの姿は綺麗だと思う。ちょっと老いぼれたピアノを優しく、包むようにして鍵盤をひとつひとつ押していく。全身を使って音楽を奏でるその姿は、絵を描くときに似ているなと思った。洗い立ての制服からは細い腕と足が伸びている。裸足でピアノを弾くという行為が、妙に色っぽく感じた。
バッハ特有の弱音のなつかしいような響きで曲が終わる。少し時がとまり、が鍵盤から手を離すと全ての空間が元へと戻る。パチパチパチ、と拍手を送った。ひとりだけの観客。ふたりきりの演奏会。俺はこの二人きりの時間が好きだった。

「ブラボー、ブラボー。最高だよちゃん」
「うさんくさい拍手ありがとう。何だかAV女優をノせる監督みたいだよ」
「ハハ、何だよそれ。もっとマシな表現しろって」

二人で声を出して笑う。が頬を緩ませたままこちらを向いて口を開く。「どうだった?」一曲弾き終わるごとに二人で話すのは、演奏会の恒例行事だ。

「リクエストしといて申し訳ないんだけど、やっぱりバッハはピアノにはむかねーな。特にみたいなタイプには。ただ、向かないってわかってても、どうしても聞きたくなっちゃうんだよな」
「フフ。それわかるかもしれない。だって本当に、バッハのよさはピアノでは出せないもの。ピアノで強弱をつけるって難しいし、ペダルで出そうと思ってもそれはバッハとは違う気がする」
「バッハってさ、重なる響きあう美しさじゃなくて、平面的な美しさなんだよな。でも、俺はの弾くバッハは好きかもしれない。プロのピアニストはさ、バッハを生かそうと思うからか音量の幅をほとんど変えないじゃん。あれはあまり好きじゃない。でもはバッハというよりはむしろピアノを生かそうとしてる気がする」
「うんうん。私にとってバッハの楽譜はあくまでピアノを生かす道具にすぎないんだよね。ピアノの音って、流れ星みたいじゃない?星は音の核だとしたら、しっぽのように伸びているのが音の響き。わたしはその音の響きを大切にしたいの。響きが重なりあって、ひとつのメロディーを作り上げてゆく。それこそ虹みたいにね」
「それがバッハだと邪魔になっちゃうんだよな。あー、もったいねーの」
「バッハは基本的に奥行きがないんだよね。まあそれが彼のいい点なんだけど」
「俺はそういうの好きじゃないな。もっと…初期のベートーヴェンみたいなさ。あーいう精悍さがいい。後期はダメだ。あれはバッハに繋がる部分がある」
「私、葦護の感想好きだよ。そういう話がしたくてどんどん弾いちゃう。次は何弾けばいい?」
「えーと、じゃあ久々にレスピーギらへんが聞きたい」
「レスピーギ?じゃあカノンにしようかな」

がパラパラと楽譜のページをめくっている。俺はその様子を音楽室の一番後ろに座って、じっと見ていた。「レスピーギならイタリアーナシチリアーナが好きなんだけどね」は笑って鍵盤へと向き合う。俺も同感だ。あの、繊細で儚さを中心とした音楽の中に、何にも屈しない強さが残っている。それはまるでのようだから。
放課後の音楽室。遠くから聞こえる野球部の声。の長い睫。ピアノの音色がそれに重なっていく。それら全てがシンクロして、まるでひとつのキャンパスのようだった。いつか、この光景を絵に描こう。タイトルはまだ未定だ。

(Italiana,Siciliana)



葦護が芸術的な話してたら萌えると思って…!音楽は素人の意見なので、あんま気にしないでください…。あ、当たり前のように葦護は美術部(…)
(060402/なぎこ)